2023年5月11日、車椅子で東山七條の京都国立博物館までー車椅子で見える世界(5)ー

 古い話で恐縮だが、5月11日、京都国立博物館で開かれていた『親鸞ー生涯と名宝ー』展を見に出かけた。暑い日だったので熱中症の不安もあったが、展覧会の終わりが迫っていたので、少々無理をしてでも見に行きたいという願望のほうが勝った。電動車椅子で出かけることにした。親鸞と私との関わりやこの展覧会については別の機会に書くつもりなので、今日は私の車椅子での冒険体験に限って書いておきたい。

 地下鉄烏丸線を京都駅で下車、烏丸通をすこし北に移動すると東本願寺の大伽藍が見えてくる。ここが七条通の交差点、そこを左折して、高瀬川、鴨川を越えると少しずつ上り坂になる。そして東山通角の国立博物館に到着という順路だ。
 この順路は最近過剰な観光客の襲来によって市民生活が圧迫されている事例として話題に上る。いわゆるオーバーツーリズムの問題のひとつだ。このあたりには国立博物館の外に三十三間堂等伯・久蔵親子の障壁画を所蔵する智積院があり、そこから東大路を北に進むと清水寺への参道である清水道に達する。歩いて観光が可能な地域なのに何故か市営バスに殺到して観光する人が多いのだ。京都駅前発の東山通を走る市営バスは本来は市民生活の不可欠の交通手段であったのに、いまでは市民が安心して利用することはもはや不可能だ。
  歩道を進んでみると、ここも事態は同じように深刻なことがすぐにわかる。狭い歩道は手入れが行き届かずガタガタだ。このあたりは鴨川沿いの低地だから地盤沈下の影響もあるのだろう。その狭い歩道を外国人観光客、修学旅行の生徒たちが群れをなして観光資源を目指して進む。このまちの行政は「歩くまち」にすると称して地元住民が求めてもいないのに四条道の歩道を拡張した。だがこの歩道はどうだ。観光客がゆっくりと歩けるまちにすると言うのなら、このまち最重要の観光歩道をこのまま放置することは問題ではないか。

 とにかく私は炎暑の中を苦労の末目的の博物館に到着できた。展覧会にも満足した。この車椅子を使って私の行動範囲は確実に拡大したことに私の気分を高揚させた。うれしかった。
 博物館に入ろうとして難題が発生した。ここは豊臣秀吉が東山山麓に造営した方広寺の跡地に立っている。だからその頃の整地や石垣の遺構が残っている上に立てられているため坂道の七条通と博物館入口の間には大きな段差がある。入場券売場に到達し入場するには数段の階段があるではないか。車椅子では近づきようがない。私は障害者手帳をかざしたところ、それに気づいた職員が現れ特別の通路に案内してくれた。そこから先は前庭の道も新しい展示館も完璧だった。でも帰途でも私はスロープを発見できず、ここでも職員に案内をお願いする羽目になった。
  
 公共交通機関や博物館の職員たちの努力には敬意を表するし感謝もしている。だが彼らの支援が成り立つのは、高齢者や障害者がこれ以上自由に動かないということを前提にしてのことだ。動き出せば彼らの善意と努力だけでは持ちこたえられないだろう。私の車椅子体験はまだ数ヶ月にすぎないのだが、その限られた日常の体験の中からでさえ、その支援の仕組みの背後から為政者たちの本音が聞こえてくる。高齢者には死ぬまでの間最低限の介護と娯楽を与えてやれば良い、彼らを自由に外に出してはならない、彼らの生の尊厳や多様性など知ったことか、こんな声が聞こえてくるのだ。
 日本国憲法十三条で次のようにいう。
 
    すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 

 重要なことは、この憲法の規定に従って支援なしで、あるいは必要な最小限の支援で死ぬまでの短い期間を自由に行動できる制度を作り上げることだ。高齢者にもっと自由を。高齢者に尊厳ある余生を。