苛立ちと妄想の日々、2022年の夏終る

 台風14号猛暑日の連鎖を断ち切ってくれた。これで息も絶え絶えで猛暑をこらえて今年もなんとか乗り切れたようだ。この数年夏が来るたびに生き延びられるだろうかと不安になっていた。この間に生き延びるための自分なりの工夫もし生き抜く方法もいくつか学んできたことも確かだ。でも猛暑に襲われるたびにそんな方法などすぐに消し飛ばされてしまう。私の夏への不安は終わることがないようだ。
 しかも今年の猛暑は疫病の大流行というかってない状況と結びついていた。何回目の大流行かなんて言うのは私の年齢にはもうどうでもよいことだ。外出すれば感染のリスクが高まる。感染すれば死への坂道を転げ落ちる、だから外出を控える、単純な発想なのだが、この対応しか思い浮かばなかった。
 三ヶ月ほど家にこもっただろうか。病院の予約も変更し来客も断り入室が必要な業者の予約もすべて断った。持病持ちの高齢者である以上、やむを得ない生命防衛策ではあった。
 このようなひきこもりの生活は私の人生で初めてのことだ。苛立ちは極点に達した。高熱が続く日々のように理性的な思考よりもあらぬ妄想が衰えた頭脳を捉えて放さない。封印したはずの記憶が思いがけなく甦り、予定していた考察はねじ曲げられ、解の出ない大問題へと引きこまれてゆく。そんな毎日だった。
 苛立ちに捉え込まれているのはこの国の住民だけではない。苛立ちは地球規模で広がりを見せている。気候変動による異常気象と疫病の蔓延によって人間の生存条件は明らかに急変している。人間にとどまらない、地球生態系を構成するあらゆる生物がその生存を岐路に立たされている。私どもは彼らの訴えを理解できないだけのことではないか。 ヨーロッパ、中国、北アメリカでの深刻な干魃が連日のように伝えられ、国土の三分の一が水没したというパキスタンの大氾濫が伝えられる。カナダやアメリカのハリケーン被害にも驚かされた。それらの地でのざわつきや苛立ちは映像だけでは伝わってこない。その映像によって連帯の感情が生まれることなどおよそありえない。そのことが私をさらに苛立たせるのだ。 
 妄想はさらに広がる。苛立ちが地球的規模でである以上、その対応も地球大的でなければならい。その苛立ちが生態的危機によってもたらされているのなら、私たちが直面している危機は循環的なものではなく、文明史的な転換の始まりであるかもしれない。それ以上に、地球の終末と言わないまでもこの危機的状況は核戦争の危機も含めてその方向に急速に進み出している兆しではないのか。
 いったい来年の夏、再来年の夏はこの危機はどのように深まっていくのか。それ以前に今年の冬はいったいどうなるのか。私の苛立ちと妄想は確実に続き、深刻になるだろう。