先日文献を探す必要があって国会図書館蔵書を久しぶりに検索してみた。すっかり様子が変わっていたので、ついでに私の仕事についても覗いてみた。私の電子書籍2冊も収納されているではないか。これには驚かされた。
この国で電子化された出版物が収集され所蔵される時代が私が存命中に到来するなどとはとうてい想像できなかった。出版社と著者たちの紙の文化への固執ぶりを見ていると、この国ではITによる新しい文化状況が誕生することなど夢物語に思えた。その上昨今の急速な活字離れの状況をみていると、活字と紙の文化の衰退はおろか、電子書籍の将来も危ういように思われるのだ。
書物だけではない。ウェブやブログ上での議論やSNS上での意見表明はもはや無視できない比重を占めるようになっている。この分野の情報を積極的に収集しているという話は聞かない。
このような時代に文章を書き綴る意味は一体どこにあるのだろうか。しかもほとんど死にかけの私のようなものが書き綴る文章など、若者たちに受け入れられる時代が来るとは到底考えられないのだから。
それでも、ただ書き散らすのではなく、書き残したいと思う。保存してくれるなら、書き残したいと思う。昔こういうことを書いている人がいたという程度でいい、歴史の一部の証人となりたいのだ。
このように考えが及ぶと、国会図書館の転換にも触発されて、書くことに少し意欲が出てきた。これでもう少しの間人生を前向きに生きられる。
幸いなことにAIの急速な進歩は、高齢者の知的活動を十分に支えてくれる。音声入力は徐々に失われてゆく視力とキーボードを叩く指力を十分すぎるくらい補ってくれるし、翻訳も辞書を引き引き時間をかけることもなくなる。うれしい限り。(2024.11.06)