86歳

 先日、86歳になった。これほど長く生き続けられるとは、しかもこれほどまでに生命力を維持しながら生きられるとは思ってもいなかった。それだけにうれしいことだ。
 手術や入院をする深刻な病にかかることがふえたが、それもなんとか克服できた。しかし体力は確実に坂を転げ落ちるように衰えている。私の父は末期ガン、多臓器不全で59歳で死んだ。父の寿命を超えたときはうれしかったものだ。私は父とは違って二度のガン切除にも耐えた。その後はまったくの未知の体験の連続だ。あの人にあやかりたいあの人を超えたいという目標はあるにはあるが、これだけは人によって千差万別、教え請うても仕様がない。
 85歳の年は最悪の出発だった。発熱して3週間あまり入院、体力回復後もコロナ禍に怯えて暮らし、気分も体調もすぐれない一年だった。86歳の年はそんなに悪くはないだろと根拠のない楽観主義に満たされて始まったのだが、思ったようにはいかないものだ。
 昨年末に仕事部屋で椅子から滑り落ち後頭部を打った。それほど大きな衝撃ではなかったのに、年が明けてから視力に異変が生じ、眼のリハビリに努めている。視力が落ちるのは、読み書きを仕事にしているものには耐えがたいことだ。
 コロナ禍がいっこうに収まらないことも気分を昨年以上に憂うつなもにしている。流行は身近にまで迫り、ゆっくりと外出する気分ではなくなってしまった。これでは脚の力は弱まるばかりだ。まわりに迷惑をかけたくないとの思いで三回目のワクチン接種にのぞんだが、副作用がきつく1週間ほど発熱と倦怠感で苦労した。
 そこに降って湧いたような大混乱に襲われた。2月3日、何者かがウェブサイトを攻撃破壊、サーバを借りている会社は即座にサーバ を遮断してしまった。ウェブサイトを立ち上げて20年あまり、それが破壊され消滅したことは、さほど水準の高い仕事とは言えないにしても、自分の脳髄の中枢に乱暴に手を差し込まれかき回された感じがして、打ちのめされた。これにへこたれてはならないと決意を固め、修復と再開の作業を進めている。完成するにはあと数ヶ月かかるだろう。できあがって再開しても、また攻撃されることは確実だから、それに対処するための気力も体力も残しておかなければならない。
 この年齢になってなぜこんなに次々と難題が襲いかかるのか。平穏に年齢を重ねたいものだと思うこともある。よく考えてみると、苦難が降りかかることも、それを克服しようとする意志の高まることも、私にはまだ活力があることの証しではないのか。人生まだ捨てたものではないと、いまかろうじて踏みとどまっている。

  かって学者を志して一緒に大学院を漂流していた先輩友人たちの訃報が伝えられることが多くなった。「漂流」とは何か,長くなるのでここでそれを論じるはやめておこう。友人たちはいったいあの時代に感じ取っていたものをどのように解決して生きてきたのか、納得して生涯を終えられたのだろうか、私は考えている。そのことを考え抜くことを私はこれまでどちらかというと避けてきた。それは卑劣で卑怯な生き方だと言われても仕方がない。あえて言い訳をするならば、歴史の歩みが私の思考と執筆のスピードを遙かに超えて進んだためであろう。この先残された時間が限られている以上、私も拙い内容のものでも書くべきであろうと考え始めている。
 そうこうしているうちに戦争が始まった。この時代に核を脅しに使ってあまりにも古典的な形態の戦争を決意する愚か者がいるとは到底想像できなかった。地球環境危機が叫ばれ人類の衰滅さえ予想されているこの21世紀に恐慌や飢餓、飢饉が話題になるとは。戦争は最大で最悪の地球破壊である。弾を撃ち合うときに人の命だけでなく他の生物種の生命、風土や景観、歴史的文化的遺産を尊重することなどありえない。カーボンニュートラルを視野に入れて兵器を開発し使用することなどありえないのだ。地球環境危機を声高に主張する人たちに訴えたい、戦争に反対せよ。残念なことに、戦争に反対する声はいまだに弱々しい。 
 私が一市民として戦争反対を叫ぶのは当然のことだ。さらにいえば、前の戦争に生き残り戦後を今日まで生き抜いてきた人間として、しかも戦後世界をどのように認識するかを課題にして学び続けてきたものとして、沈黙は許されないように思われる。
 86歳という年齢にとってあまりに重い課題を背負わされる、そういう時代になってしまった。その重さに耐えかねて道半ばで転倒することになったとしても、逃げることは許されない課題であろう。2022年は、老いぼれていくものにとって恐ろしい年になった。