このまちは高齢者、障害者にやさしいと言えるだろうかー車椅子から見える世界(2)ー
電動車椅子の助けを借りてこれからの生活をどのように変えるのか、あれこれ考えている。体力維持のためのこれまでの努力をやめるわけでは決してない。
この十数年体調が最悪にならぬよう食い止めてくれたのは、永原診療会千本診療所元気道場でのストレッチ体操だった。毎週3回は通院したろうか。これがなかったら、私はとっくに寝たきりになっていたに違いない。5年半前に胃ガンを切除してからは体力が目に見えて衰え、道場に出かける回数が激減した。これではいけない、何とか最低限週2回を維持しようと決意したのはよかったが、疫病流行で私の決意はまったくの絵空事に終わってしまった。
通院には体力が維持できなくなっていた最初の1年ぐらいを除き胃ガンを切除する前までは公共交通を利用していた。その後はもっぱらタクシー利用と相成った。さて、車椅子利用を加えてどうするか。
京都の道路は健常者でも歩くのに苦労するのが殆どだ。何しろ桓武天皇が造営した古代平安京の道、豊臣秀吉が縄張りしこしらえた道が今も生活道路として使われているのだから。拙宅は烏丸鞍馬口あたりに、診療所は千本五辻上ルにある。鞍馬口通か寺ノ内通を西に進み千本通を左折すると到達する。どちらも古い細道、電信柱が林立、歩道・車道の区別などない。そこに自動車、バイク、自転車が走りまわる。とても車椅子初心者が移動できるとは思えない。
以前に衣笠の立命館大学に講義を頼まれていた頃に何度か歩いて通ったことがある。西陣の中心を東西に横切り船岡山を交わして続くこれらの道のあたりにはこのまちの古代から現代に至る歴史の遺構が散りばめられていて興味を引く通りだ。車椅子をうまく操作できるようになったら散策を実現したいものだ。
残念ながら、当面は歩道と車道が明確に区別されている道を選択せざるを得ないだろう。堀川通を南に下がって堀川今出川を西へ、千本今出川の交差点を右折するという遠回りの道だ。しかしこの道も問題は山ほどある。いったいどんな問題に突き当たるのか、体験の中で考えてみたい。
苛立ちと妄想の日々、2022年の夏終る
台風14号は猛暑日の連鎖を断ち切ってくれた。これで息も絶え絶えで猛暑をこらえて今年もなんとか乗り切れたようだ。この数年夏が来るたびに生き延びられるだろうかと不安になっていた。この間に生き延びるための自分なりの工夫もし生き抜く方法もいくつか学んできたことも確かだ。でも猛暑に襲われるたびにそんな方法などすぐに消し飛ばされてしまう。私の夏への不安は終わることがないようだ。
しかも今年の猛暑は疫病の大流行というかってない状況と結びついていた。何回目の大流行かなんて言うのは私の年齢にはもうどうでもよいことだ。外出すれば感染のリスクが高まる。感染すれば死への坂道を転げ落ちる、だから外出を控える、単純な発想なのだが、この対応しか思い浮かばなかった。
三ヶ月ほど家にこもっただろうか。病院の予約も変更し来客も断り入室が必要な業者の予約もすべて断った。持病持ちの高齢者である以上、やむを得ない生命防衛策ではあった。
このようなひきこもりの生活は私の人生で初めてのことだ。苛立ちは極点に達した。高熱が続く日々のように理性的な思考よりもあらぬ妄想が衰えた頭脳を捉えて放さない。封印したはずの記憶が思いがけなく甦り、予定していた考察はねじ曲げられ、解の出ない大問題へと引きこまれてゆく。そんな毎日だった。
苛立ちに捉え込まれているのはこの国の住民だけではない。苛立ちは地球規模で広がりを見せている。気候変動による異常気象と疫病の蔓延によって人間の生存条件は明らかに急変している。人間にとどまらない、地球生態系を構成するあらゆる生物がその生存を岐路に立たされている。私どもは彼らの訴えを理解できないだけのことではないか。 ヨーロッパ、中国、北アメリカでの深刻な干魃が連日のように伝えられ、国土の三分の一が水没したというパキスタンの大氾濫が伝えられる。カナダやアメリカのハリケーン被害にも驚かされた。それらの地でのざわつきや苛立ちは映像だけでは伝わってこない。その映像によって連帯の感情が生まれることなどおよそありえない。そのことが私をさらに苛立たせるのだ。
妄想はさらに広がる。苛立ちが地球的規模でである以上、その対応も地球大的でなければならい。その苛立ちが生態的危機によってもたらされているのなら、私たちが直面している危機は循環的なものではなく、文明史的な転換の始まりであるかもしれない。それ以上に、地球の終末と言わないまでもこの危機的状況は核戦争の危機も含めてその方向に急速に進み出している兆しではないのか。
いったい来年の夏、再来年の夏はこの危機はどのように深まっていくのか。それ以前に今年の冬はいったいどうなるのか。私の苛立ちと妄想は確実に続き、深刻になるだろう。
電動車椅子に乗るつもりー車椅子から見える世界(1)ー
今年の春頃から車椅子を借りることを考え始めていた。電動のものを探していた。私の要望にすべて応えてくれるものはないけれども、とにかく機種を決めレンタルの手続も済ませた。
車椅子を利用しないでも、自分の足で動き回れる体力はまだ残っている。その能力は残り少なくっているが、努力すればまだ当分の間は維持できると裏付けもないのに勝手に考えている。それでも90歳代まで生きようとすれば、やはりこの器械に頼らざるを得ないだろう。力がまだ残っているうちに使い方を覚えて備えておきたい、可能な限り人の助けを借りずに生きる備えをしておきたいとの考えもいつも頭をもたげるのだ。
現在の高齢者支援の制度では車椅子利用に対する支援はご本人の介護保険の評価が上がらぬ(?)限り、つまり自力で動けなくならない限り不可能なのだ。このような制度は実におかしい。しかし私の考えるようにすれば、日本の都市のバリアフリーと称する施策のいい加減さはたちどころに露呈することになるだろう。特に私が今住むまちの仕組みは高齢者には惨憺たる状態であることはたちどころに明らかになるだろう、要するに今の制度や都市の構造は車椅子にのって自力で生活したいという高齢者や障害者の願いを押さえ込む、彼らを介護という仕組みで家の中に閉じ込める体制ではないのか。そういうことをこのところずっと考えている。
このところの疫病大流行で、私の生活は激変した。外出を控えるようになった、というよりも控えざるをえなかった。友人たちと会う機会もなくなった。美味と美酒を求めて市中を徘徊することも出来なくなった。これでは体力が衰えていくのは当然の成り行きだろう。それに歩調をあわせて知的好奇心も萎える。この状態を放置すると、悪循環が進み死に至る。私は焦り始めたようだ。電動車椅子を使えばこの悪循環を断ち切れるのではないか、それ以上に私の好奇心の地平も格段に広がるのではないかと考え始めたのだ。
現物が入ったと業者から知らせがあった。長い人生で自動の乗り物を手元に置く機会はまったくなかった。そのようなものに生まれて初めて乗れることに私は子どものように胸が高鳴った。ところがである。搬入してもらうと、勝手口の段差を超えられないのだ。利用開始はあっけなく延期に追い込まれた。
勝手口にあったサイズのゴム製の段差解消スロープを探すのに時間がかかったが、なんとか入手。ところが疫病の再度の大流行と連日の猛暑という異常事態、しかも収まる兆しが見えないのだから、私の計画は当分の間お預けとなった。
それでも私はあれこれと計画だけは練っている。この車椅子に乗ってどこまで外出できるか、その外出の障碍をどうやったら突破できるか、脚力の維持のための努力とどのように両立させるか。地図を調べて対策を考えるだけでも実に面白く、閉じこもって生きる現在をいくらかは改善してくれる。
2枚の家族写真に思うー戦争に引き裂かれた家族の悲惨と不安ー
1枚の家族写真、これはリュブリャナ(スロベニア)のある古書店・出版社のフェイスブックから借用したものだ。映像作家の創作なのかそれとも実際の家族写真なのかはわからない、いつの時代のものか、第二次大戦の時かそれともユーゴスラビア解体後の内戦の時か、それもわからない。それでもこの写真に感じ取られる家族の苦悩と悲劇の雰囲気に心揺り動かされる。この家族の夫であり父親である人物の不在はつるされた大きな黒い外套で示されている。不安げな表情の妻と事情を知らずに軍帽をかぶせられた子ども、この対比に胸打たれる。
この写真をみて私はすぐに手元にある写真を思い出していた。私の数少ない戦前の家族写真だ。私の父岩次郎はここには写っていない。岩次郎はこの頃には中国大陸侵略に駆り出されていて不在だった。彼は1902年(明治35年)生まれ、私が生まれた1936年(昭和11年)には34歳だった。彼が出征したのはおそらくこの年の私が生まれた直後の夏頃ではなかったかと推定する。帰還したのは1940年だったと思う。私の姉弟は、上3人が女の子(一人は私が生まれる前に亡くなった)で4人目でようやく男の子がうまれた。あの頃の表現を使えば跡取り息子にようやく恵まれたのである。それなのに父は待ち望んだ男の子の成長を見ることもなく戦地に駆り出されたのである。
軍服を着て写る男性は「島」(当時私のまちでは北方領土をそのように呼んでいた)で仕事をしていたJ叔父である。祖母と同じ石川県能登の出身で「島」から買物などの用事で私のまちに出てくると私の家に泊まっていた。私どもをわが子のようにかわいがってくれた。おそらく彼の出征の際に私どもと記念写真を撮ったのだろう。軍帽をかぶった男の子が私で、まだ立ち歩きが出来ないのか叔父が脚で支えている。私が綿入れの着物を着ているところから判断して撮影されたのはおそらく1937年で、海峡を埋め尽くした流氷が去り「島」との往来がようやく回復する遅い春が到来した頃だろう。あるいはその翌年1939年の同じ季節の頃かもしれない。
岩次郎は戦死することなく私が4歳の時に無事に帰還した。家族と親族みんなで父の乗る列車を数駅前で出迎えた。雨の日だった。このことは私の幼児の頃の今に残る最初の記憶である。
その後すぐに太平洋戦争が始まった。彼は2度目の徴兵をまぬがれた。軍需工場の指定を受けた造船所に雇用されていたからだ。それは幸運なことではあったが、その代わりに自分の母を見捨てるかのように目前で焼死させるという戦争の悲劇に立ち合わされることになった。戦地で体験したであろうことよりもはるかに残酷な体験であった。
父は中国大陸のどこに引っ張り出されたのか、家族に語ることはなかった。父と話す機会は訪れなかった。自分のことばかり考えていたあの時代にはある意味しようがなかったのかもしれないが、それにしても彼はあまりにも早く逝ってしまった。もう少し生きていてくれたら、父と戦争体験を語り合えたのにと悔やまれる。
しかし調べてみると、岩次郎が出征していた期間は北海道に展開していた第七師団が満州に出兵した時期と一致する。彼が所属していた部隊は関東軍とともにソ満国境でソ連軍と交戦していたに違いない。帝国陸軍が壊滅的打撃を被ったあの張鼓峰事件やノモンハン事件である。あの軍事衝突は戦争中は秘匿され、戦後になってその様子が当事者たちの証言でようやく明らかになった。父が戦地のことを話さなかったのは、彼が無口で穏やかな人格であったためだけではない。箝口令のために話せなかったのではないか。 いまになって私はそのようにも想像するのだ。
幸せそうに見える父親不在の家族写真の裏には、想像を絶する生死をかけた戦闘の渦中にある父の姿が隠されていたのだ。そのように見ると、この写真もリュブリャナの家族写真と同じように残酷なものだ。
この写真の由来にもすこし触れておかねばならい。私の子ども時代の写真や記録は1945年7月15日の空襲ですべて失われた。この写真は戦後にJ叔父から提供されたものだ。J叔父もおそらく満州に出征したはずで、無事帰還したものの1945年8月に千島列島に侵攻したソ連軍に追われて難民化し北海道に逃れた。彼はアルバムから家族写真を剥がして胴巻に隠し持ち帰った。先祖の位牌よりも写真が大事かと後に変わり者扱いされたといういう。彼の決断によって私の戦時の記憶はこのように残された。感謝している。
古びた家族写真1枚にも戦争にまつわる歴史が秘められている。リュブリャナの写真のその後の家族の歴史はどのように展開したのだろうか。いつの時代でも地球上のどの場所でも戦争は家族の運命を無残にも引き裂く。
私のこのささやかな体験記録を戦争によって家族を引き裂かれ悲惨の中に彷徨する人びとに捧げたい。
86歳
先日、86歳になった。これほど長く生き続けられるとは、しかもこれほどまでに生命力を維持しながら生きられるとは思ってもいなかった。それだけにうれしいことだ。
手術や入院をする深刻な病にかかることがふえたが、それもなんとか克服できた。しかし体力は確実に坂を転げ落ちるように衰えている。私の父は末期ガン、多臓器不全で59歳で死んだ。父の寿命を超えたときはうれしかったものだ。私は父とは違って二度のガン切除にも耐えた。その後はまったくの未知の体験の連続だ。あの人にあやかりたいあの人を超えたいという目標はあるにはあるが、これだけは人によって千差万別、教え請うても仕様がない。
85歳の年は最悪の出発だった。発熱して3週間あまり入院、体力回復後もコロナ禍に怯えて暮らし、気分も体調もすぐれない一年だった。86歳の年はそんなに悪くはないだろと根拠のない楽観主義に満たされて始まったのだが、思ったようにはいかないものだ。
昨年末に仕事部屋で椅子から滑り落ち後頭部を打った。それほど大きな衝撃ではなかったのに、年が明けてから視力に異変が生じ、眼のリハビリに努めている。視力が落ちるのは、読み書きを仕事にしているものには耐えがたいことだ。
コロナ禍がいっこうに収まらないことも気分を昨年以上に憂うつなもにしている。流行は身近にまで迫り、ゆっくりと外出する気分ではなくなってしまった。これでは脚の力は弱まるばかりだ。まわりに迷惑をかけたくないとの思いで三回目のワクチン接種にのぞんだが、副作用がきつく1週間ほど発熱と倦怠感で苦労した。
そこに降って湧いたような大混乱に襲われた。2月3日、何者かがウェブサイトを攻撃破壊、サーバを借りている会社は即座にサーバ を遮断してしまった。ウェブサイトを立ち上げて20年あまり、それが破壊され消滅したことは、さほど水準の高い仕事とは言えないにしても、自分の脳髄の中枢に乱暴に手を差し込まれかき回された感じがして、打ちのめされた。これにへこたれてはならないと決意を固め、修復と再開の作業を進めている。完成するにはあと数ヶ月かかるだろう。できあがって再開しても、また攻撃されることは確実だから、それに対処するための気力も体力も残しておかなければならない。
この年齢になってなぜこんなに次々と難題が襲いかかるのか。平穏に年齢を重ねたいものだと思うこともある。よく考えてみると、苦難が降りかかることも、それを克服しようとする意志の高まることも、私にはまだ活力があることの証しではないのか。人生まだ捨てたものではないと、いまかろうじて踏みとどまっている。
かって学者を志して一緒に大学院を漂流していた先輩友人たちの訃報が伝えられることが多くなった。「漂流」とは何か,長くなるのでここでそれを論じるはやめておこう。友人たちはいったいあの時代に感じ取っていたものをどのように解決して生きてきたのか、納得して生涯を終えられたのだろうか、私は考えている。そのことを考え抜くことを私はこれまでどちらかというと避けてきた。それは卑劣で卑怯な生き方だと言われても仕方がない。あえて言い訳をするならば、歴史の歩みが私の思考と執筆のスピードを遙かに超えて進んだためであろう。この先残された時間が限られている以上、私も拙い内容のものでも書くべきであろうと考え始めている。
そうこうしているうちに戦争が始まった。この時代に核を脅しに使ってあまりにも古典的な形態の戦争を決意する愚か者がいるとは到底想像できなかった。地球環境危機が叫ばれ人類の衰滅さえ予想されているこの21世紀に恐慌や飢餓、飢饉が話題になるとは。戦争は最大で最悪の地球破壊である。弾を撃ち合うときに人の命だけでなく他の生物種の生命、風土や景観、歴史的文化的遺産を尊重することなどありえない。カーボンニュートラルを視野に入れて兵器を開発し使用することなどありえないのだ。地球環境危機を声高に主張する人たちに訴えたい、戦争に反対せよ。残念なことに、戦争に反対する声はいまだに弱々しい。
私が一市民として戦争反対を叫ぶのは当然のことだ。さらにいえば、前の戦争に生き残り戦後を今日まで生き抜いてきた人間として、しかも戦後世界をどのように認識するかを課題にして学び続けてきたものとして、沈黙は許されないように思われる。
86歳という年齢にとってあまりに重い課題を背負わされる、そういう時代になってしまった。その重さに耐えかねて道半ばで転倒することになったとしても、逃げることは許されない課題であろう。2022年は、老いぼれていくものにとって恐ろしい年になった。